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喫茶ま・ろんど

TSFというやや特殊なジャンルのお話を書くのを主目的としたブログです。18禁ですのでご注意を。物語は全てフィクションですが、ノンフィクションだったら良いなぁと常に考えております。転載その他の二次利用を希望する方は、メールにてご相談ください。

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(一般創作)五十年後の日常

「なんかさ、息苦しいんだよなあ」
 河合には悪いが、俺は真っ先に、せっかくの酒がまずくなるなあと考え、口元まで運んでいた猪口をテーブルに置いた。
 河合は静かに、ゆっくりと、そして深く。肺の中身を全て絞り出すような重い重いため息をついてもう一度呟いた。
「なんでだろうなあ。息苦しいのは」
「疲れてるんだろ」
 連日の仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事。延々とパソコンの画面に向かいながらキーボードのボタンを打ち続け、ようやく終わりが見えて来た辺りで、次の仕事が押し込まれる。
 それだけならば仕事なのだからと割り切って頑張ることもできるだろうが、河合の場合はそこに人間関係のトラブルが絡んできているからもうどうしようもない。ましてやそれが、部下の粗探しに精を出すロクデナシの上司である工藤に特に意味もなく目を付けられた、というものだから同情せずにはいられない。
 今日の説教内容なんて、午前中の会議で決まった新しい業務ルールを、昨日までやっていなかった、というとんでもない内容だった。曰く、元々言われなくともやっていなければ駄目なことだったのに、こうして今日まで放置してきたことが間違っている。とのことで、仮にその理屈が正しいと前置きするにしても、河合だけが怒られるようなことではありえないのだ。ましてや、それだけで一時間以上も拘束されては、理不尽としか形容のしようがない。
 そういうわけで、河合のことはかわいそうだとは思うが、しかし、それとこれとは話が別だ。確かに俺だってあの工藤の奴は大嫌いだ。だが、せっかくの仕事終わりのこの、開放感をもって酒が飲める貴重な憩いの時間において愚痴の聞き手に喜んで回りたがるようなお人よしではないのだ。
「お前は良いよなあ。工藤課長のイヤミはうまくかわすし、それに、家に帰ったら美人でできた奥さんもいるし」
 俺の都合など全く気にせず河合は愚痴を続ける。
「お前もスルーしとけよ。あの馬鹿の説教に意味なんて無いんだからさ。今日だって、あれは無茶苦茶すぎる」
「分かってはいるんだけどなあ」
 そう。俺も分かっている。こいつは、そういうイヤミを聞き流せない性分なのだ。
 そして、頭の中ではあれこれ考えながらも、結局愚痴をスルーできない俺の性分もまた、河合は分かっているのだろうと思う。だからこうして、俺に相談めいた話し方をするのだ。
「こうも息苦しいとさ。なんかなあ、全然気が休まらないもんだから、ちょっとのイヤミも癇に障っちゃうんだよなあ」
 ん。
 話が噛み合っていない。俺はてっきり、工藤のイヤミがひどくて息苦しいのだろうと思って話をしていたが、しかし、河合の言い方を聞く限りでは、そもそも、息苦しさがあるせいでイヤミを聞き流せないと言っているようではないか。
「そんなもんかねえ」
 どう返事をしたものか、良い言葉が思い浮かばず、時間稼ぎとばかりに酒をあおって、焼き鳥をゆっくりとほおばりながら悩んだが、結局閃かなかったため、なんだかわけの分からない、どうとでも受け取れるような返事をしてしまう。
「お前は良いよ。仕事で疲れてても、家に帰れば奥さんがいてさ。二人でテレビなんか見ながらちょっとその日の愚痴なんかも聞いてもらって、風呂なんかも休んでる間に沸かしてもらって、元気がありゃあ寝る前にやることやったりするんだろうしさ。俺なんか一人身だから全部ぜーんぶ一人でやらなきゃならないし。そりゃあ息苦しくもなるってもんだろうなあ。結婚してるお前にはそこら辺が分からないんだよ」
 ああ、こいつは随分悪酔いしているなあ。河合は本来こんな下品な絡み方をするような奴じゃあない。愚痴るにしても普段は、相手の気分を害さないような配慮が感じ取れる。ましてや、こんな風に俺の私生活を悪しざまに言うようなことはまずありえない。
 それだけ疲れているということなんだろうけれど、絡まれるこちらとしてはさすがに面白くない。かと言って、それを非難するのも酷というものだろう。それこそ追い打ちを掛けるような行為だ。
 だから俺は、
「ん、まあ、なあ」
 とやはり曖昧な返事をするに留めておいた。
 正直、見ていたのかと問いただしたくなるくらい、河合の言う通りだった。俺は今どき珍しい、専業主婦の妻と暮らしており、掃除も洗濯も風呂も妻がやってくれているし、その妻は、俺の仕事の愚痴を嫌な顔をするどころか、時には興味深々といった風に本気で聞いてくれたりもする。
 まあ、唯一、夜の生活に関しては、最近離れ気味になっているため、その点だけは河合の話は的外れと言えた。
 ……そういえば、その理由だ。妻も最近、なんだか息苦しいと言っていた。生活をしていてひどく閉塞感を覚える、と。何日かに一度程度の割で、不意にそんなことを、ため息交じりに言う妻の姿を見ると、気軽に夜の生活に誘う気分にはどうしてもなれないのだ。
 ああ、そうだ。妻との話を参考にして話を広げてみるのもいいかもしれないな。
「流行ってるらしいな、最近」
「何がだよ」
 唐突に口にしたため、意味が分かっていなかったようだ。まあ、これは俺の言い方が悪かった。反省する。
「息苦しいって奴さ。新型のうつの一種だって、なんかのニュースで見たよ」
 正確には、息苦しいと言っていた妻を病院に連れて行った時に、医者が言っていたことだ。
 最近、特に明確な理由らしい理由が無いのに、なんとなく閉塞感を覚えているという患者が来院する、と。そうやって他の患者の話をするのは、なんというか、個人情報保護の面から考えると褒められたものではないようにも思えたが、しかしよくよく考えて見れば、具体的にどこの誰それがどうしたと言っているわけではないのだから、構わないのかもしれないな、とすぐに思い直した。
「俺が病気だってのかよ」
 それまで手に持っていた割り箸をテーブルに置いて、河合は少しばかり強めの口調で言い寄ってきた。
 しまった。話の振り方を間違えただろうか。
「いや、病気なのかもしれないよな、確かに。お前がそう思うんなら、実際そう見えるんだろうし」
 面倒になるかと思ったが、幸いにも、河合はすぐに気を消沈させた。いや、見ようによっては、こうしてうじうじといつまでも落ち込まれ続ける方がよほど面倒かもしれないが。
「いっそ本当に病気ならなあ。楽なのかなあ」
 何と声を掛ければ良いか悩む。が、その必要が無くなった。
「お客様。間もなく閉店になりますが」
「あれ、もうそんな時間か」
 慌てて腕時計に視線を落とすと、確かに、もう十九時前になっている。
「おい、河合、閉店だってよ」
「んー」
 当たり前だが河合にしてみれば尻切れトンボという奴だろう。随分と不服そうなうなり声だが、閉店となっては仕方がない。
「今はさ、仕事を辞めたって生きるには困らない時代なんだからさ。あんまり疲れてるなら、ちょっと仕事から離れてみるのも手じゃないかね。で、リフレッシュしたらまた働きはじめたら良いさ」
 何の励ましにもなっていない気もしたが、今の俺に掛けられる言葉はそれぐらいしか浮かばなかった。



 今の時代は、いわゆる「最低限の生活」が完全に保障されている。働かずとも、金がなくとも、国が住居をあてがってくれるし、朝昼晩、三食とも配給で腹を満たすことができる。むろん、それによって得られるのは本当に「最低限」と言って差し支えないものだ。生活保護マンションには、六畳程度のワンルームにトイレが設置されているだけの簡素な部屋が一棟辺りに百五十室前後用意されている。風呂は共用で、住人の共有スペースに設置されているテレビを見ることと、最寄りの図書館から借りられることのできる本だけが彼らの娯楽だ。
 そんな生活で構わないと考える者、あるいは、何らかの理由で働けない者は、ここでの生活を選ぶ。
 しかし殆どの場合は、より充実した生活を送るために、何らかの職業に就き、金を稼ぎ、生活のランクを上げていく。
 もちろん、生活保護マンションに住みながら働くことにも問題はない。
 生活保護マンションで住居費を浮かし、食事のランクを上げたり、あるいは、各種の娯楽を堪能する者もいる。
 逆に、住居のランクは上げながら、食事の方を配給で済ませるという生活を選ぶ者もいる。
 要は自由なのだ。全てにおいて国の制度に甘えてもかまわないし、一部、自分にとって都合のいい部分でだけ甘えても構わない。
 俺のように、一切甘えず、衣食住娯楽全てに対して費用を割くのも当たり前だが構わない。一切甘えず、と言っても、生活保護を選ばない人間に対しては、生活保護に応する程度の補助金が出るため、厳密には生活保護を受けているのと何も変わらないのだが。
 しかし、これらの生活保護予算を捻出するため、数十年前までは存在していた制度や公的設備の幾つかが、完全になくなっているか、あるいは大幅にその規模を縮小させられているという問題点も存在する。
 まあ、その点に関しては、まっとうに生活をしている分には何も問題にはならないため、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。
 ともかく、そんなわけで、河合のようにちょっと精神が参ってきているような奴も、生きるために働かざるを得ない、というような状況に陥らずに、むしろ、生きるために働かないという判断をすることが可能なわけだ。

 その河合が逮捕されたと聞いたのは、愚痴を聞いたあの日から三日後のことだった。
 あの愚痴を聞いた翌日、河合は本当に会社を辞めた。多少なり驚いた部分はあったが、それだけなら、こっちが被る迷惑なんてのは、せいぜいが業務調整に振り回される程度のことだし、そもそも自分がけしかけたような部分もあるから、河合を責めるような気にはならなかった。
 それが、逮捕となると話は別だ。
 突如警察から会社へと電話があり、河合の業務態度などについてしつこく聞かれ、その上で直接話をする機会を設けられた。河合のことについて、関わりの強かった何人かの社員が、一人当たり一時間以上も拘束され、根掘り葉掘り、本当に捜査と関係があるのか疑いたくなるような質問までされた。
 もちろん俺も、仕事をやめる前日に一緒に食事までしていたこともあり、職務質問に応じる羽目になった。
「疲れていた、ですか」
「ええ。見た目にも明らかに疲れてましたし、自身、最近ずっと息苦しいというようなことを言ってました」
「息苦しい、ねえ」
「何か気になるんですか」
「最近多いんだよねえ。息苦しくて、って動機。で、ちっとも罪悪感らしいものが見えなくてねえ。情状酌量も求めないのよ。素直に罪を償います、ってね。この彼もね、その辺全部おんなじなんだよねえ」
 罪状は放火。誰も住んでいない廃屋に火を付けた後、自分で消防に連絡。その後すぐに警察に連絡し、鎮火前に自首したという。
 以上のことから、最初から逮捕目的で火を付けたと考えるのが妥当とのことだ。
 警察が調べているのは無論、その手前。すなわち、逮捕されることを望んだ動機だ。
 どんな可能性があるのだろう。廃屋に恨みがある、なんて馬鹿げた理由はあり得ないだろう。ならば、例えば興奮するから火を見たかった、とか、ストレス発散につい……というのも考えにくい。それでは即座に自首をしたことに繋がらない。罪の意識が感じられないと警察が言っているのだから、燃える廃屋を見て罪の意識が芽生えた、というのもありえない。
 ならば、もっと重い罪を隠すため……にしては、放火というのは随分と重罪に過ぎる。放火でなければ隠せなかった罪だろうかと考えても、放火より重い罪なんて、殺人ぐらいしか俺には浮かばない。死体を燃やして証拠隠滅、なんてできる筈もないし、そんな物騒な物が現場から出てきていないのは警察の言葉からも明らかだ。何より、そんな、俺のような探偵ごとの素人がぱっと考えつくような動機であれば、とうに警察が見つけ出しており、こうしてわざわざ話を聞きに来るような真似はしないだろう。
 視点を少し変えて、放火でなくともよかった。と考えることはできるだろうか。つまり、犯す罪は何でも良かった。懲役を受けることそのものが動機という可能性だ。
 それもちょっと考えにくいだろう。
 昔は刑務所という設備があったため、食うにも困るような生活を送っている人間が、衣食住を確保するために敢えて罪を犯す、なんてことがあったらしいが、今の時代にはそんなことはあり得ない。刑務所なんてのは、例の、「大幅に規模を縮小された設備・制度」の最たるものなのだ。
 そもそも、罪を犯さなくとも食と住居は保証されているのだ。そして、犯罪者は逆に、それらの保証対象から除外され、その上、一般人の居住区域への立ち入りも許されなくなり、非居住区域へ追放されるのだ。
 そんなあべこべ、真逆の状況では、罪を犯す動機にはなりえない。
 それらの懲役者向け区域は、基本的に、津波の危険があるような海近くや、生活に不便な山奥、あるいは過去に地震などの大きな災害があったような場所が設定されている。そしてここからの話は、実際に見たわけではないから、情報として知っているだけだと前置きをしておく。
 罪人たちは、自分たちで畑を耕し、あるいは家を建て、生きていかなくてはならない。
 といっても、そういった技術や技能、知識を持っていない人間も珍しくはない。というよりも殆どがそうだ。その上、そもそも、畑を作るにしても食物が一日二日で実る訳がないし、家だってよっぽど適当なものでない限りは一日で建てるなんてまず不可能だ。
 海の近くであれば、魚を釣ることもできるかもしれないが、釣りの仕方を知らない人間なら結局はそうもいかない。
 結果、そういった技能を持っている人間に頼まざるを得なくなる訳だが、そいつらだって無償で請け負うようなお人好しではありえない。そもそも、そんな性格であれば犯罪など犯していないだろうから当然だ。
 ではどうするのか。驚いたことに彼ら、彼女らは、独自の通貨を作り、建築物や食物等の売買を行っているというのだ。
 追放された罪人たちは、まず、それらの通貨を手に入れるため、所有物を売り払ったり、あるいは日雇いの業務を探して稼いだり、借金をしたりして、なんとかして金を手に入れる。それでもって、一日幾らの宿や住居を借りて生活しつつ、懲役期間を生き延びなければならないのだ。
 借金に関しては、懲役期間が終われば踏み倒せそうなものだが、その辺りは当然向こうも承知の上で貸すそうだ。
 一般的には、金貸し業が副業で、メインとして別の事業を展開しており、そちらの従業員として働かせ、貸した金は給料から棒引きで返済させる場合が多いとか。そうであれば、返済金を取りはぐれる可能性はぐっと低くなる。
 しかしこうなってくると、単に、従業員不足の会社が、給料の前借を許すことで従業員を確保しているだけのようにも感じられる。というか、事実そうなのだろう。金を稼ぐためとは言え、なんともいじましい努力に感じられるが、それも仕方がないことだ。
 特に終身刑を受けたような犯罪者であれば、安定した職業……という言い方はなんとも奇妙な感じがするが、ともかく、どんな手段を使ってでも、事業を拡大し、金を稼ぎ続け、金を貯め、生活保護が存在しない世界で生きなければならないのだ。
 こうして考えてみると、やはり過酷なことだ。敢えてそんな生活を求めるなんて、到底考えにくい。
 それでも行きたいと考えるなら……そこに会いたい人がいる、とかそういう理由になるのだろうか。
 それならばあり得るかも知れないが、しかし、河合にそんな執心している相手がいるとは聞いたことがない。
 こうして長々と頭の中で逡巡したが、結局のところ、俺が警察に言えることは一つだった。
「それ以上のことは、ちょっと分かりませんね」
 警察も同じような考えだったらしく、河合の友人で、何か犯罪に手を染めた人間がいるというような話を聞いたことがないか、と確認してきたが、それも先に考えた通りに、分からないとだけ言っておいた。
 家族や親族に対する言及が無かったのは、既にその点は警察の方で調べた上での質問だったからだろう。
 そうして貴重な業務時間内に行われた、俺に対する警察の質疑は、何の成果もなく終わりを告げた。



 結局その日の仕事は、途中で警察に時間を取られたことと、河合が犯罪に手を染めたという事実が頭から離れなかったこととが混じり、全く思うようには進まなかった。明日以降に仕事のしわ寄せが集まることを考えると少しばかり気が重くなった。
 せめて気晴らしに、旨いものでも食って気分を変えるかと思い、晩飯に焼き肉屋へと行ったのだが、それもままならなかった。今月は、河合の愚痴に付き合うために何度も飲み屋で晩飯を済ませていたために、カロリー摂取量が想像以上にかさんでいたのだ。
 注文したところで、月辺りのカロリー摂取量の上限を超える危険があるため受け付けられないと言われた。
 これも、本来は「まっとうに生きていれば気にならないこと」だ。
 今の時代は、生活保護予算を捻出するため、医療関連の予算が大幅に削減されている。免責になる場合もあるが、多くの場合は、病気や怪我を負った場合、その治療費はほぼ全額を負担しなければならない。
 その代わり、病気や怪我を負う危険性を減らすために、食事内容や各種の生活環境を大まかに管理されているのだ。
 一カ月単位で、各種栄養素やカロリー等の摂取量の上限と下限が定められている。その枠内に収まる形であれば好きなように食べて構わない。住民管理カードの携帯が義務付けられており、レストラン、飲み屋等の提供者側はそのカードに食事内容のデータを登録する。食べ残しがある場合は、その内容を再度入力する。と、その程度には徹底されている。
 摂取内容が下限に満たない場合は、食事内容の改善を指示されたり、栄養剤を支給されたりする。
 そして今の俺にように上限を超えそうな場合は、食べられるものが限定されてしまう。ジム等で運動することでカロリーを消費すれば、その分が摂取量から差し引かれるため、ある程度の融通が利くようにはなるが、仕事の内容によってはそういことはままならないし、俺のように運動が好きでない場合には、食事を我慢するか、我慢して運動をするかという、結局どちらにしても我慢を強いられるような選択しか存在しない。
 結局俺は、どうするか悩んだ末、今月、残り一週間程度だが、肉断ちを決断した。
 河合の逮捕で一日振り回され、そして、河合との付き合いで、今月残り一週間を振りまわされることになる。
 悪いことは重なるものだ、と、俺は随分と気を重くしたが、ここにもう一つ、悪いことが重なった。
 家に帰ると、例によって妻が、「息苦しい」と愚痴ってきたのだ。
 確かに見た目にも疲れが明らかで、そのせいだろう、掃除も洗濯も全くできていなかった。一日中、休んでいたのだろう。余裕があれば、仕方ないさと慰めることもできたのだが、今日の俺は少し疲れていた。
「具合が良くないなら仕方がないけど、掃除ぐらいは頑張ってほしいなあ」
「ごめんなさい、でも、私だって頑張れるなら頑張ってるわよ」
「でもじゃないよ。俺は一日働いてるんだからさ。それなのに、お前が一日中家で寝てるのを見せられると、やっぱり少し面白くないんだよ」
「そんな言い方ないでしょ。私だって好きで寝てたわけじゃないのに。悪いとは思ってるわよ」
「そりゃあ分かるけどさ。それならそれで、もう少し申し訳ないようにしてくれよ」
「嘘ついてるって言うの。私が」
「そうは言ってないよ、でも」
「言ってるじゃない。全然つらそうに見えないんでしょう。だからもっと病気っぽく振るまえって言うんでしょう」
「ちょっと落ち着けよ」
 全く意味のない言葉の応酬だということは早々に気付いていたが、一度口を開きはじめてからは止まらなかった。
 自分でも妻に悪いと思いながらも、つい、そうやって不満をぶつけあう結果になってしまった。
「どうしたの。会社で何かあったの」
 一時間以上もやり取りをした後、ようやくお互いに冷静さを取り戻したところで、妻が聞いてきた。
「河合がさ、逮捕されたらしいんだよ。放火でさ」
「河合って、河合さん? なんでそんなことをしたの」
「知らないよ。あ、いや、警察も調べてるらしくてさ。心当たりがないかって聞かれたんだよ。それで疲れちゃってさ」
「そう」
「お前と同じかは分からないけどさ。でも、あいつ、ずっとなんとなく息苦しいって言ってたからな。それが何か原因なのかもしれないけれど、やっぱりよく分からないよなあ」
 しばらくの沈黙の後、
「あ、そっか」
 と妻が言ったような気がした。あまりに小さな呟きだったので、聞き間違いかと思った。いや、実際に聞き間違いだったのかもしれない。
 俺が、
「え?」
 と聞き返すと、
「え、なあに?」
 と、不思議そうに首を傾げて来たから。



 妻が河合と同じように放火をして逮捕されたのは、それから半月後のことだった。



 俺は今、一人で生活している。
 身近なところから二人も犯罪者が出たことから、俺は、その動機を随分と考えた。しかし、結局はどうしても分からなかった。
 ただ、ニュースなどでそういう類いの事件が報道されると、以前よりも少しばかり関心を持って見聞きするようになった。
 そうして気付いたのだが、やはり最近、そういう動機の不明瞭な犯罪が増えているらしかった。
 共通しているのは、情状酌量を一切求めず、また、執行猶予の判決を受けた場合は、即座に何らかの事件を起こし、懲役を受けるまで繰り返し罪を重ね続けること。そして、犯罪の内容には一貫性がないため、それらの行為そのものではなく、懲役刑を受けることこそが目的であるらしいこと。最後に、再犯率が極めて高く、殆ど例外なく、懲役期間の完了と同時に事件を引き起こして再び懲役に戻るそうだ。
 本当に、幾ら考えても意味が分からない。
 外の世界の、何がそんなに魅力的なのだろうか。
 首をひねりながら、家を出ようとする。が、エラー音が流れ、ドアが開かなかった。
 おや、と思い腕時計を見てみると、二分早かった。
 まだ、午前七時五十八分であった。

 人々の生活は、徹底して国に管理してもらっている。
 朝は八時にならないと外出できないよう、ドアはオートロックされており、また、夜は二十時までに帰宅しなければならない。併せて、仕事の時間は十七時までと定められている。例外は、食事の提供に従事している者で、二十一時までに帰宅をすれば問題ない。
 帰宅をすると、やはりオートロックが機能し、翌日の午前八時までは出入りできなくなる。
 そして、一般家庭は二十二時、飲食関係に勤める者の家は、二十三時に、エアコン以外への通電が遮断され、町は闇に包まれる。
 こうして、不用意な夜間外出を防ぐことにより、怪我や事件への遭遇率が減り、同時に安定した睡眠時間が確保されることとなる。このシステムのおかげで人々は常に健康な生活を維持することができているのだ。

 このような安定した生活を息苦しいと考え、何の支えも存在しない、衣食住すべてを自力で確保しなければならない世界の、一体どこに魅力があるというのだろうか。
 好きな物を好きなように食べて、そして好きな時に寝起きする、という自堕落な生活だけは、俺も少しばかり魅力を感じないではないが、その先に待っているのは、肥満や病気といった各種のトラブルだ。
 外では、それらに対応するための病院も存在しており、かつ繁盛しているというのだから、犯罪者たちの悲惨な生活の度合いは推して知るべきだろう。

 そんなことを考えている間に、八時になった。扉が開く。

 意味の分からないことを考えるのは忘れよう。

 そして、今日も一日、頑張ろう。

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